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名古屋地方裁判所 昭和54年(ワ)2051号 判決 1985年7月19日

原告

平山孝一

平山浩

右法定代理人親権者父

平山孝一

右両名訴訟代理人

青木茂雄

二村満

加藤良夫

池田伸之

鈴木高広

被告

野畑医院こと

野畑益

右訴訟代理人

後藤昭樹

太田博之

立岡亘

主文

一  被告は、原告平山孝一に対し金一二四六万一〇〇〇円、原告平山浩に対し金一八二二万二〇〇〇円、及び右各金員に対する昭和五四年一月三一日から完済に至るまで年五分の割合による金員を支払え。

二  原告らのその余の請求を棄却する。

三  訴訟費用は、これを三分し、その一を原告らの負担とし、その余を被告の負担とする。

四  この判決は、原告ら勝訴部分に限り、仮に執行することができる。

事実

第一  当事者の求めた裁判

一  請求の趣旨

1  被告は、原告平山孝一に対し金一八六〇万七九〇〇円、原告平山浩に対し金二五五六万五八〇〇円、及び右各金員に対する昭和五四年一月三一日から完済に至るまで年五分の割合による金員を支払え。

2  訴訟費用は被告の負担とする。

3  仮執行宣言

二  請求の趣旨に対する答弁

1  原告らの請求をいずれも棄却する。

2  訴訟費用は原告らの負担とする。

第二  当事者の主張

一  請求原因

1  当事者

原告平山孝一(以下「原告孝一」という。)は訴外亡平山千代三(昭和二二年二月九日生。以下「千代三」という。)の夫であり、原告平山浩(昭和四四年一月二〇日生。以下「原告浩」という。)は原告孝一と千代三との間の子である。

被告は、肩書地において「野畑医院」の名称で医院を開業している産婦人科医師である。

2  診療契約の締結

千代三は、昭和五三年八月三〇日被告の診察を受けて第三子の妊娠を知り、その際被告との間で、以後定期的かつ適宜に被告の診察を受けること及び第三子の出産、産前産後の医療処置を受けることを内容とする診療契約を締結した。<以下、省略>

理由

一請求原因1の事実(当事者)は当事者間に争いがなく、被告本人尋問の結果によれば、被告は昭和二七年に医師の免許を取得し、以来勤務医として産婦人科医の業務に従事し、昭和四一年一月一日から野畑医院を開業したもので、昭和五四年当時右医院は、被告の他医師一名(被告の妻、小児科及び産婦人科)、看護婦一一名(内助産婦一名、準助産婦二名)、見習い看護婦六名、病床一九という体制であつた事実が認められる。

二請求原因2の事実(診療契約の締結)は当事者間に争いがない。

三千代三の死亡に至るまでの経緯

<証拠>を総合すると、以下の事実を認めることができる。

1  千代三は、昭和五三年八月三〇日被告医院を訪れ診察を受けた。千代三は、当時満三一歳で二回の出産を経ており、診察の結果第三子を妊娠したことが確認され、現在妊娠三か月で、分娩予定日は昭和五四年四月一〇日と告知された。血液検査の結果は異常がなく、血液型はO型で、血圧は一二〇―七〇と正常であつた。右初診以来同年九月二七日、一〇月三一日、一一月二八日、一二月二八日と定期検診のため被告の診察を受けてきたが、その結果はいずれの場合にも異常は認められず、母子ともに正常な妊娠経過であった。

2  ところが、千代三は昭和五四年一月一六日下肢のむくみを訴えて被告の診察を受け、診察の結果、下肢に浮腫があり、尿蛋白が認められ、血圧は一四五―九〇であつた。そこで、被告は千代三を妊娠中毒症と診断し、同人にラシックス(利尿降圧剤)を一日一錠宛六日分を投与し、かつ食塩及び水分の摂取制限を指示した。

3  千代三は、被告の指示通りラシックスを飲むようになつたが、そのころから嘔吐を訴えるようになり同年一月二三日の定期検診の日にも嘔吐を訴えて被告の診察を受け、診察の結果、血圧は一三〇―七〇であつたものの依然として下肢に浮腫があり、尿蛋白はワンプラスからツープラスに増加し、体重もこの前の定期検診の日から約一か月の間に五キログラム増加していた。被告は、千代三に嘔吐があつたことから薬剤をラシックスからこれより弱いコンドロンに切り替え、一日三錠宛一〇日分を投与したが、依然として千代三の嘔吐は収まらず、内服薬を十分飲めないような状態が続いた。

4  そして、同年一月二九日午後八時三〇分ころ、千代三は自宅において便所に行つた際に性器出血を示し、立つていると流下し着衣、じゆうたんをぬらし、局所にあてた綿花を通し、座つていても横になつてもふとんにしみる状態となつたので同日午後九時三〇分ころ、実母である秀代に付添われ性器出血の他腹痛、嘔吐、胎動不明を訴えて被告医院を訪れ、被告の妻の診察を受けた。千代三は、不規則に時間の間隔を置いて腹痛に襲われ、その度毎に嘔吐を訴えており、外診所見では児心音は聴取可能で、内診の結果では子宮口が二横指大に開大し、胎盤にはふれなかつた。そこで被告の妻は、千代三を直ちに入院させ病室に収容した。

5  同年一月三〇日午前一時ころ、千代三は被告の妻の診察を受けたが、依然として腹痛は続き、嘔吐は著明で胎動は不明であつたが、児心音は聴取可能で、子宮口は二横指開大のままであつた。千代三の出血は入院後も続き、局所にあてた厚さ二〇センチメートル幅三〇センチメートルぐらいの綿花を通し、三〇分位の間隔で取替える必要があり、この出血状態は千代三が分娩室に移されるまで続いた。

6  同日午前三時三〇分ころ、千代三は被告の診察を受け、その時、子宮口は三横指大に開大していたが、児心音はすでに聴取することができなくなり、この時点で胎児の死亡が推認された。被告は、胎児が妊娠二九週で成熟児に比べて小さく、千代三が二回の経産婦で子宮口の開大も進行していたことから、陣痛を促進して経膣分娩させることを考え千代三を病室から分娩室に移した。そして、分娩監視装置の使用を開始したが、千代三の陣痛が弱かつたため、五パーセントブドウ糖液五〇〇ミリリットルにプロスタルモンF一〇〇ガンマ二アンプル(陣痛促進剤)を入れて点滴を開始し、三〇分経過した同日午前四時ころ、子宮口は全開大し、自然破水し、同日午前四時二〇分ころ、千代三は胎児を娩出した。児は体重一五八〇グラム、身長三八・〇センチメートル、頭囲三〇・〇センチメートル、胸囲二五・〇センチメートルであつたが、無呼吸、心拍動なく、皮膚は白色であつた。臍帯が頸部に二重に纏絡し、死産であつた。娩出した胎盤の一部に胎盤早期剥離と思われる凝血塊が認められ、右部分はどす黒い色に変色していた。被告はこの時点で初めて胎盤早期剥離があつたことを知つた。

7  千代三は児娩出後も性器出血を続け腹痛、嘔吐があり、被告はその後点滴をラクテックG五〇〇ミリリットルに切り替え、アドナ(止血剤)五ミリリットル、トランサミン(止血剤)五ミリリットル、ソルコーテフ(副腎皮質ホルモン)三〇〇ミリグラムを混入して続け、メテルギン(子宮収縮剤)一ミリリットルを皮下注射したが、千代三の腹痛は強く、嘔吐が強いため、被告は過強後陣痛と診断してソセゴン(鎮痛剤)一五ミリグラムを筋肉注射し、更に五パーセントブドウ糖液五〇〇ミリリットルにタチオン(肝臓保護剤)二〇〇ミリグラム、ヌトラーゼ(ビタミン剤)五〇ミリグラム、ライボミン(ビタミン剤)一ミリリットルを混入して点滴を継続した。その間、被告は膣内の凝血を一回除去したが、その時の血液の凝固性は正常であつた。

8  ところが、同日午前六時ころ、千代三は呼吸困難を訴えるに至つた。そこで被告は、鼻腔注入による酸素吸入の措置をとるとともに、輸血の必要を考えその取寄せをするべく千代三の血液型の検査を開始した。他方、ソルコーテフ(副腎皮質ホルモン)五〇〇ミリグラムを静脈注射し、また、従前片腕から点滴していたものを両腕から点滴することにし、一方の腕からKN3B五〇〇ミリリットルにデキサシエロソン(副腎皮質ホルモン)五ミリグラムを混入して点滴し、他方の腕から五パーセントブドウ糖液五〇〇ミリリットルにネオフィリン(強心剤)一〇ミリリットルを混入して点滴し、その後メテルギン(子宮収縮剤)を皮下注射した。それにもかかわらず、千代三の呼吸状態は一向に改善されず、腹痛と嘔吐が続いたため、同日午前六時三〇分ころ、被告は血液センターにO型Rh(+)の血液三本(一本当たり二〇〇ミリリットル)の送付を依頼した。また、そのころ千代三は、導尿しても尿量が少なく腎機能の障害がうかがわれる状態であつたため、被告はラシックス(強心利尿剤)一ミリリットルを皮下注射した。

9  血液は、同日午前七時五〇分ころ到着したが、そのころ千代三の呼吸困難は強まり、顔色も悪く、血圧が下降するなどショック様症状がみられ、予後の危険が予測されたため、被告は、同日午前七時五五分ころ今津、渡辺両医師に応援を依頼し、同日午前八時一五分ころ輸血を開始した。

なお、分娩後も千代三の出血は続き、千代三に前記呼吸困難が認められた同日午前六時ころ以降になつて外出血は認められなくなつた。

10  被告は、今津、渡辺両医師が到着する同日午前九時近くまでの間、前記輸血を続け(結局、千代三が死亡した同日午前一〇時ころまでの間に四〇〇ミリリットルを輸血した。)、また、点滴による輸液も前同様の内容で継続したが、千代三の症状は改善されることなく次第に悪化し、今津、渡辺両医師が被告医院に到着した同日午前九時近くには、眼瞼結膜が蒼白となり、瞳孔は半ば開大し、意識はなく、脈拍は頸動脈にて触れる程度で、弱いながら自発呼吸があるという状態であつた。

今津医師は、まず鼻腔注入による酸素吸入を管管内挿管によるそれに切り替え、心電計を装着して同日午前九時二〇分ころから連続的に心電図をとり(右心電図は心筋虚血の像を示し、電気的興奮は心室自動能のみとして約一〇秒に一回の割合であつたが有効拍出量はないと考えられた。)、腕からの輸液をさ径部静脈からのそれに切り替えさらに、皮下注射及び静脈注射を行ない、ショック予防のためソルコーテフ、ノルアドレナリン、ネオフィリン、カルチコール及び昇圧、強心のためボスミンを施し、数十分にわたり心マッサージを施した。

しかしながら、千代三の症状は改善されず、同日午前一〇時ころには心音は消失し、呼吸はなく、瞳孔は散大し、対光反射もなく、死亡と認められた。

以上の事実を認めることができる。

四千代三の死因

1  原告らは、千代三の死因は胎盤早期剥離に基づく出血死である旨主張するので、以下この点につき検討する。

前記三記載の事実によれば、千代三の性器出血は、昭和五四年一月二九日午後八時三〇分ころに始まり、約一〇時間を経た同年一月三〇日午前六時ころ以降まで続いていたものであり右出血は胎盤早期剥離により生じたものと認められるが、右約一〇時間の間にどの程度の量の出血があつたかについては、前記乙第一号証にまつたくその記載がなく、前記松本証言及び原告孝一の供述中出血量に関する部分は多分に主観的で具体性を有するとはいえず、また、被告の供述も前記乙第一号証にその記載がないからこれを採用することに相当性があるとはいえないため、今日これを計数的に確定することは困難という他はない。

しかしながら、千代三の出血は約一〇時間も続き、同日午前四時二〇分ころ自然分娩をしたが、それは胎盤早期剥離の異常分娩であつたことを考えると、千代三は前記約一〇時間の間に通常の出産にともなう通常の出血量を超える相当程度の内、外出血をなしたものと推定するに難くなく(鑑定人麻生武志の鑑定の結果も出血量を計数的に明らかにすることはできないというに止まるものであつて右推定を必ずしも否定するものではない。)、他に右推定を左右するに足りる証拠はない。

そして、<証拠>及び鑑定の結果を総合すると、胎盤早期剥離において性器内、外出血があつたときは貧血性ショック状態(急性貧血及び腹膜刺激のための不安状態)となり、一旦出血がとまり胎児を娩出後も子宮収縮不全のため弛緩出血をおこし、いずれもこれに対応する措置をとらないときは失血により死亡する可能性が高いものと認められる。これを本件についてみるに、千代三は前記第三の5認定のとおり胎盤早期剥離を生じ入院後胎児娩出まで出血が継続したほか腹痛、嘔吐は著明であり、また前記第三の7認定のとおり胎児娩出後も出血が続いたほか腹痛、嘔吐が著明であり遂に呼吸困難に陥つたものであるから、千代三は胎盤早期剥離による貧血性ショック及びこれに続く胎児娩出前後の通常の胎児娩出にともなう出血量を超えた出血による失血死の可能性を否定できない。前記被告の供述中には、千代三は胎児娩出後多量の出血はなく胎盤娩出後一回凝血を除去したがそのときは子宮の収縮障害はなく弛緩性出血はなかつたという部分があるが、現実に生じている出血の説明にならないし、被告の右供述自体から明らかなとおり胎盤娩出後時間の経過と共に弛緩性出血がおこる危険性があるものと認められるところ、被告は右の凝血除去後は子宮内診等によりこれを確認する必要を感じながら結局確認しなかつたというのであるから、右認定を左右すべきでなく、また前記渡辺証言中には、千代三は外出血がなく子宮収縮は良好であつたから弛緩性出血をおこした可能性はないという部分があるが、右証言部分は同医師が千代三を診察した一月三〇日午前九時以降の状態(すでに出血はほとんどとまり不可逆的ショック状態となつていた。)についてのものであるのみならず、同証言は多分に被告弁護の色彩があり前記被告の供述に基づくものとしてにわかに措信できない。

2 次に原告らは、千代三の単独又は競合的な死因として肺水腫を主張するので検討するに、前記(三の7、8)認定のとおり、被告は一月三〇日午前四時二〇分ころ千代三が児娩出後、同日午前六時ころまでの四時間弱の間に多量の輸液を施し、右時刻ころ呼吸困難に陥り、導尿するも尿は少なく腎機能の低下が認められた。そして、前記鑑定の結果によると、右認定の事実からみて、千代三は急速な輸液により心拍出能を超えた血管内体液量の増加をきたし、腎からの排泄も不十分なため肺に水が貯溜する肺水腫の状態となり、呼吸困難を生じさせ、心不全により死亡した可能性を否定できない。

3  ところで被告は、千代三の死因は胎盤早期剥離からくるDICであると主張するので、以下この点につき検討する。

<証拠>及び前記鑑定の結果を総合するとDIC(血管内血液凝固症候群)は定型的なものは産科領域に多く胎盤早期剥離をも基礎疾患として発症することがあり、その発症の機序、臨床症状は被告の主張(請求原因に対する認否3のDICに関する主張部分)のとおりであり、その診断、治療は困難な致死的な疾患であることが認められる。そして千代三は、胎盤早期剥離があり、子宮内で胎児が死亡し、陣痛を増強して経腟内に娩出していること前認定のとおりであるからDICを発症する素地と危険性があつたといえる。しかし、前掲各証拠によると胎盤早期剥離からDICが発症する頻度は小さくDICが発症し血管内で広汎に血液が凝固するも種々の凝固因子が消費され、また、広汎に微少血栓が形成されるとこの血栓を溶解しようとする繊維素溶解現象の亢進も生じること、右凝固因子の消費及び繊維素溶解現象の亢進の結果、著明な全身性の出血傾向(皮下出血、鼻出血、歯肉出血、血尿、穿刺部位や切開部からの滲出性出血等)を生じ、出血してきた血液が凝固しにくくサラサラした状態となることが認められるところ、前記三記載の事実によれば、一月三〇日午前六時ころまでは血液の凝固性は正常であつたことが認められる一方、それ以降においても前記全身性の出血傾向及び血液の凝固の状態を認めるに足りる証拠はないから、同日午前六時ころ以降DICが発症したとすることもできない。よつて、千代三の死因に関する被告の主張はこれを採用することができない。

4 以上を総合して判断すると、千代三は胎盤早期剥離により貧血性ショック状態となり、胎児娩出後も通常の胎児娩出の際にみられる出血量を超えた継続的な性器内・外出血による失血状態が生じ、更にこれに対する多量かつ急速な輸液により心拍出能を超えた血管内体液量の増加をきたし肺水腫を生じて呼吸困難となり、よつて急性心不全により死亡したとするのが相当である。

五被告の債務不履行

原告らは、千代三の死亡は、被告の診療契約上の義務に違反による旨主張するので、以下この点を検討する。

1  入院時の処置について

<証拠>及び鑑定の結果によれば、妊娠中毒症と胎盤早期剥離の合併頻度については六・一二〜六二・五パーセントと大きな相違がみられ、両者の関連性は絶対的なものということはできないが、産婦人科医としては前者がある場合には後者の危険性があることを常に念頭において診療に当たるべく、また、前者の主要症状である浮腫、尿蚕白、高血圧が顕著であるものほど後者を合併する頻度が高くなることが認められるから、特に注意をする必要があるものとされている。

本件においては、昭和五四年一月一六日の時点で千代三には妊娠中毒症の右主要症状である浮腫、尿蚕白及び高血圧の全てが認められ被告も妊娠中毒症と診断し、同年一月二三日の時点でも浮腫及び尿蛋白が認められ(血圧は下がつているが、これは利尿降圧剤ラシックスにより一時的に改善されたものと考えられた。)、しかも尿蛋白はワンプラスからツープラスに増加し、体重も約一か月の間に五キログラムも増加し、かつ嘔吐もあつたものであるから、妊娠中毒症としては全体として悪化しているものといわなければならない。被告は右症状及びその変化を十分知悉していたものであるから、右時点以降胎盤早期剥離の危険性があることを常に念頭において診療に当たるべき義務があつたということができる。

そして、<証拠>、鑑定の結果によれば、妊娠中毒症にり患している産婦が妊娠後期(千代三は入院時妊娠二九週で妊娠後期に入つていた。)に性器出血があつた場合には、母体及び胎児の生命に直接かかわる前置胎盤、子宮破裂とならんで(常位)胎盤早期剥離が考えられること、胎盤早期剥離による症状は性器出血が主特徴であり通常下腹痛があり、胎動不明であることが認められるところ、本件において千代三は、入院時(同年一月二九日午後九時三〇分ころ)性器出血の他腹痛(なお、被告はこの「腹痛」とは陣痛ないしは陣痛様の腹痛であつたと主張するけれども、前記乙第一号証の一月二九日の入院時及び同年一月三〇日午前一時の各欄に「腹痛(+)」との記載があり同日午前三時三〇分の欄の「陣痛弱し」と区別していることからみて採用できない。)、嘔吐、胎動不明を訴えていたものであるから、被告はこの時点で胎盤早期剥離を第一義的に疑い詳細な検討をする必要があつたというべきであり、また、入院時の所見から胎盤早期剥離を疑うことは十分可能であつたというべきである。

なお、被告は、この点につき、入院時胎盤早期剥離を疑わせるような症状があつたことは確かであるが、他方、下腹部の圧痛や腹壁の異常な緊張、子宮底の上昇など胎盤早期剥離に典型的にみられる症状が認められなかつたとして被告が入院時に胎盤早期剥離の診断を下しえなかつたとしてもやむをえない旨主張し、前掲甲号各証によると右各症状は胎盤早期剥離に通常生ずるものと認められ、被告の供述中には千代三にはこれが認められなかつたとの部分があるが、下腹部の圧痛は存在したものと認められるうえ被告は千代三が入院後翌一月三〇日午前三時過までの間自から診察せず、またその間診察した被告の妻がいかなる診察をしこれをいかに被告に伝えたかは明らかでないから被告の右供述は措信できない。また仮に、そうとしても前記千代三の入院前後の所見からみて、産科医として通常の注意をもつて診察すれば、胎盤早期剥離を疑い、これに対応する処置をとるべく、かつ可能であつたというべきである。

しかるに被告は千代三の所見から、前置胎盤及び子宮破裂等の症状がないとして(常位)胎盤早期剥離に思いあたらず直ちに通常の早産と速断したことは、本件診療契約上の義務を尽さなかつたというほかない。

2  入院後児心音消失までの処置について

<証拠>、鑑定の結果によれば、胎盤早期剥離が発症した場合には、速やかに胎盤、胎児、凝血塊などの子宮内容物を排除して子宮を収縮させ、止血を図ることが医学的に確立された治療方針であること、右子宮内容物の排除のための急速遂娩については、経腟分娩法をとるか、帝王切開術をとるかについては一概にはいえないが、胎盤早期剥離の状態が軽症で、しかも児の生存が確認される場合には、速やかな子宮収縮を図ること及び児の救命という観点から、経腟分娩法よりは帝王切開術をとるべきであること、経腟分娩法をとるとしても、遂娩を迅速に行なうため、人工破膜により羊水の流出を図つたり、オキシトシン点滴静脈注射などによつて陣痛を誘発する処置がとられなければならないこと、そして、分娩中は児及び母体に対する厳重監視を要し、経腟分娩に伴う異常(例えば、児の切迫仮死、死亡、出血増量等)に対処しうる体勢がとられなければならないこと、さらに、一旦経腟分娩法がとられたとしても、子宮口が開大せず、三、四時間も分娩進行の気配がない場合には、児の生存が確認できれば、分娩法を帝王切開術に切り替えて行なうべきであること、また、出血対策としては、血圧、脈拍数、出血量の厳重なチェックを行ない、赤血球数、ヘマトクリット値、出血時間の検査も併せて行ない、症状に応じた輸血をなす必要があることが認められる。

しかるに被告は、千代三が被告医院に入院した一月二九日午後九時三〇分ころから翌一月三〇日午後三時三〇分ころまでの間約六時間に、被告の妻をして二回にわたり診察させたのみで当時使用可能であつた分娩監視装置も使用せず児心音を一回聴取しただけで早産と速断し、急性遂娩の措置をとらず、右の一月三〇日午後三時三〇分ころにいたり被告が自から千代三を診察し、そこで子宮口の開大及び児心音の消失を発見し、この段階でようやく陣痛促進剤を施し、千代三の子宮内容物の排除の手段に着手したものと認められるから、胎盤早期剥離にり患した千代三に対する診療としては、その診察の内容、治療の手段と時間的遅滞の点において、通常の産科医としてなすべき義務をつくさなかつたものというほかなく、また右義務をつくしていれば、千代三の胎盤早期剥離によるいたずらな性器出血を防止し、また胎児をも救命できた可能性を否定できず、その意味で被告の右本件診療契約上の債務不履行は重大というべきである。なお、被告は、右に述べた子宮内容物の排除のためにする急速遂娩につき、千代三の入院時の所見及び外診の結果からすれば、帝王切開術の適応にあるかどうかは極めて微妙という他はないから、被告が経腟分娩法を選択したことをもつて非難することはできない旨主張し、また急速遂娩法として経腟分娩法をとるか帝王切開術をとるかは、被告も主張するように、分娩の進行の有無、母体の一般状態の如何等を基準にして決せられるものであつて、その選択は刻々と変化する性格を有しているというべく、問題は単に経腟分娩をとるか帝王切開術をとるべきであつたかでなく、千代三の右時間帯における一刻をも争う状況下において如何に速やかに産科医としていずれを最善と判断すべきかの問題であつて、仮に右午前三時三〇分頃の被告のとつた経腟分娩の方法が可としても、右にいたる約六時間にわたる遅滞が正当化されるわけがないから右主張は、右結論を左右するものではない。

3  児心音消失後千代三の呼吸困難発生までの処置について

<証拠>及び鑑定の結果によれば、胎盤早期剥離のある妊婦が児を娩出した後は、子宮収縮の障害、弛緩出血の危険性を念頭に置き、出血及び出血性ショックに対する対策をとるのが治療の基本であること、その前提として、出血情況の把握のため、ヘマトクリット値の測定、血圧測定、検尿、中心静脈圧(CVP)の測定、出血量の測定が行われなければならないこと、そして、出血状態、患者の状態に応じた輸血、輸液がなされなければならないこと、また、右輸液、輸血を行うにあたつては患者の脈拍数、血圧、肺の呼吸音、尿量等を監視し、特に大量の輸液を行うにあたつては循環動態の指標となる中心静脈圧の測定をしながら輸液の量と速度を患者の状態に適応するよう調節し、心拍出能を超えた血管内体液量の増加を防止する義務があるものと認められる。

しかるところ、一月三〇日午前三時三〇分ころ、被告は千代三の子宮口が開大し児心音が聴取できなくなり胎児の死亡が推定されたので経膣分娩を相当と考え、陣痛促進剤を施し同日午前四時二〇分ころ自然破水を経て胎児を娩出させることができたが、その後すぐに娩出された千代三の胎盤をみて被告ははじめて早期剥離を発見し、娩出後も性器出血、腹痛、嘔吐があるのを見て、前記三項7、8各記載のように各種の薬品の輸液を行い、同日午前六時ころ千代三が呼吸困難を訴えたので酸素吸入の措置をとり、その後静脈注射、輸液を精力的に行い、同日午前八時一五分ころ輸血を開始したものである。

しかし被告は、右の間二回にわたり血圧を測定(乙第一号証の記載によるが、被告の供述によるもこれは後日記載したもので正確性には疑問がある。)したほか前記のなすべき検査、測定を行つた形跡はなく、また子宮収縮障害の心配はしたけれど子宮腔の内診等も十分行わないまま、被告の言によれば精力的に薬品の輸液を行い、輸血についても同日午前六時ころ千代三が呼吸困難を訴えてはじめて血液型確認の検査をし、血液の取寄せを手配し、同日午前八時一五分ころ輸血を開始したが千代三の呼吸困難は強くなつたものであり、被告はこの間になすべき措置についても産科医としてなすべき義務をつくしたものといえず、右義務をつくしていれば、千代三の胎児娩出後の貧血性ショックないし心拍出能を超えた体液量の増加、腎機能の低下、これによる肺気腫への進行を防止しえたものと考えられ、右義務は産科医たる被告がなし得たものと認められるから被告の本件診療契約上の債務不履行の責を免かれない。

4  千代三の呼吸困難発生後死亡にいたるまでの処置について

<証拠>及び鑑定の結果によれば、胎盤早期剥離の患者が胎児分娩後呼吸困難等いわゆるプレショック又はショック状態に陥った場合には、まず患者の性器出血状況、脈拍数、血圧、呼吸、尿量等の変化を連続的に監視し、血管と気道を確保し、前記変化に応じ体液のバランス、薬剤の機序を考慮して緩急自在に薬品の輸液、輸血及び酸素投与が必要と認められる。

しかるに被告は右の間、千代三の右状況の変化を把握するための諸検査を行つた形跡もなく、酸素及び血液の有効な投与をするために必要な気道並びに血管の確保もしないまま、一方の腕の静脈から引き続きただ精力的に薬品の輸液を、一方の腕の静脈から輸血を続け、鼻腔注入による酸素投与を行つたにとどまり、いずれも効を奏さず千代三の呼吸困難は改善されることなく次第に悪化し、同日午前九時頃応援の今津、渡辺両医師が被告医院に到達したとき千代三はすでに不可逆的ショック状態にあり、右両医師の血管並びに気道確保後の輸液、注射及び心臓マッサージ等の強力な措置も、すでに手おくれで、同日午前一〇時頃千代三を死亡させたものであり、被告は千代三の右呼吸困難発生後今津、渡辺両医師到達までの産科医としてなすべき義務をつくしたものとはいえず、右義務を自からつくすか、少なくとも右両医師の応援をいち早く依頼し右義務をつくしていれば千代三の救命をはかれた可能性を否定できず、右義務は産科医たる被告がなし得たものと認められるから、被告の本件診療契約上の債務不履行の責を免かれない。

六被告の損害賠償責任

1 被告の前項1認定の千代三の診断の過誤は本件診療契約上の義務履行の出発点における根本的なあやまりであり、前項2認定の診療上の過誤は一刻をも争うべき胎盤早期剥離に対する急速遂娩を中心とする有効な治療の著しい遅滞であり、前項3認定の過誤は千代三にすでに生じた貧血性ショックないし失血状態に対する諸検査の著しい懈怠、そのうえにたつ輸血を中心とする不手際、一方での輸血、酸素補給の遅滞であり、前項4の過誤は重篤になつた千代三の救命のため最後になすべき緊急措置の遅滞ということができ、以上はいずれも本件診療契約上被告の債務不履行というほかなく、右の債務をつくしていれば、少くとも千代三の生命を維持できたものというべく、被告は千代三の死亡によつて生じた原告らの損害を賠償する義務がある。

2 また、右認定の被告の各債務は被告が産婦人科医として業務上つくすべき注意義務にも相当し、かつこれをつくすことが可能であつたと認められるから、被告は業務上の過失によつて千代三を死亡させたものとして民法七〇九条により原告らの損害を賠償する義務をも免れない。

七以下、損害額について検討する。

(一)  千代三の逸失利益

(1)  弁論の全趣旨によれば、千代三は死亡当時満三一歳(昭和二二年二月九日生)の主婦で原告ら家族の家事労働に従事していたものであり、その後少なくとも六七歳まで三六年間にわたり稼働し、その間少なくとも死亡年度である昭和五四年賃金センサスの産業計、企業規模計、学歴計の右死亡時に対応する女子労働者の平均賃金である年間一八五万二九〇〇円を下回らない収入を得ることができその間の同人の生活費は年収の五〇パーセントとするのが相当であり、これを基礎としてホフマン方式により年五分の割合による中間利息を控除して千代三の逸失利益を算定すると、一八七八万三〇〇〇円(但し一〇〇円未満切捨)となる。

(2)  前記の通り孝一は千代三の夫、原告浩は千代三の子であつて、右損害賠償請求権を一対二の割合で相続したから、原告孝一が相続した千代三の逸失利益は六二六万一〇〇〇円であり、原告浩が相続したそれは一二五二万二〇〇〇円である。

(二)  慰謝料

原告孝一本人尋問の結果及び弁論の全趣旨によれば、原告孝一は千代三の夫として、原告浩は千代三の子として円満に同居し一つの家族を構成していたものと認められるところ、その妻、母を失つたものである等の事実に照らし、その慰謝料額は原告ら各自について五〇〇万円とするが相当と認められる。

(三)  葬儀費用

弁論の全趣旨によれば、原告孝一は葬儀費用として少なくとも五〇万円の支出をしたことが認められるところ、右金額をもつて本件不法行為と相当因果関係にある損害とするのが相当である。

(四)  弁護士費用

原告らが、その訴訟(復)代理人らに対し本件訴訟代理を委任したことは本件記録上明らかであり、その額は本件訴訟の経緯、事件の難易、前記請求認容額に照らし、原告ら各自について七〇万円を相当する。

(五)  まとめ

以上によれば、原告孝一が千代三死亡により被つた損害は一二四六万一〇〇〇円であり、原告浩のそれは一八二二万二〇〇〇円である。

八以上の次第で、原告孝一の本訴請求は一二四六万一〇〇〇円、原告浩の本訴請求は一八二二万二〇〇〇円及びこれらに対する昭和五四年一月三一日から完済に至るまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払を求める限度において、それぞれ理由があるからこれを認容し、その余は失当であるから棄却し、訴訟費用の負担につき民事訴訟法八九条、九二条本文を、仮執行の宣言につき同法一九六条一項を、それぞれ適用して主文の通り判決する。

(裁判長裁判官浅野達男 裁判官岩田好二、裁判官田島清茂は転補のため、いずれも署名押印することができない。裁判長裁判官浅野達男)

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